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【アラベスク】  第9章 蜜蜂



第2節 水と油 [10]




 僕は、必要がない?
 目の前が暗くなる。
 僕は必要がない。
 そうだ。僕なぞ、何の必要もないのかもしれない。でも――――
 僕には美鶴が必要だ。
「合鍵使って入るからね」
 瞬間、電話の向こうが息を飲む。さすがの聡も目を見張るが、当の瑠駆真は真剣だ。
「なんとしても、そっちに行く」
「暗証番号、わかんないクセに」
「この間、君を自宅まで送った時に、君のお母さんから聞いている」
 澤村優輝に捕らえられ、保護され病院へ搬送された美鶴は、瑠駆真と母の詩織(しおり)に付き添われて帰宅した。
「絶対に行く」
「そんな事したら、不法侵入で訴えてやる」
「訴えればいい」
 瑠駆真の声は、ひどく静か。あまりに静かで、だから冗談や脅しではないとわかる。
「訴えればいいよ。でも僕は絶対に、行く」
 言ってしまって、やはり少し強引過ぎたかと後悔する瑠駆真。だが、言い出してしまったからにはもう引き下がれない。
 さあ美鶴、どうする?
 そんな、少し挑戦的で、なぜだか少しだけ心地良く、でもやっぱり重苦しく広がる世界に、無遠慮なほどの冷たい言葉。
「そんな事言って、本当はできもしないクセに」
 ―――――っ!
 何かが、何かが瑠駆真の奥から競りあがる。
 形もままならない、ドス黒い、だが眼だけが爛々と光を放つ、まるで魔物のような激しい何か。腹の底から一気に全身を支配する。とても瑠駆真には抑えられない。あまりの力強さに目の前が真っ暗になり、一瞬、気を失ったのかとさえ思えた。

 ―――― ミツル

「今すぐ行く」
 とても瑠駆真の声とは思えない。低く、唸るような声と共に瑠駆真が携帯から手を離そうとした、まさにその瞬間だった。
「ねぇ? ひょっとして聡くん? あら? それとも瑠駆真くん?」
 電話の向こうから響く声。なんともマヌケで間延びで、だからこそ三人とも絶句する。
「お… 母さん」
 お母さん?
「何よぉ? なんで睨むワケ?」
 この声は………
「睨んでなんかない。ただ電話の邪魔しな……… あっ ちょっとっ」
 聡と瑠駆真を完全に無視した会話の途中にガサゴソと雑音が入り、ワケのわからない美鶴の抗議とまったく場の雰囲気の読めていない詩織の声が交差する。そうして
「もしもしぃ? 聡くぅん?」
「あ……… はい」
 一瞬頬を引き攣らせてしまった聡。これが電話で本当に良かった。いや、詩織なら、このような微かな表情の変化などにはまったく気付かないだろう。それはある意味ありがたい。
「いやんっ 久しぶりぃ。元気だった?」
「あ、はい。元気です。おばさんも元気そうで」
「まぁね。あ、アタシ、今起きたとこなの。寝ぼけ声でゴメンねぇ〜」
 甘ったるい声の背後から憮然とした声が飛ぶ。
「ちょっとお母さん、電話返してよ」
「うるさいわねぇ、今は私が聡くんと話てんのよ」
 そういう会話をする時には、マイクを手で覆うとかするもんなんじゃないのか?
 こっちに全部筒抜けてるんですけど。
 などといった会話を目と目で交わす聡と瑠駆真。
「もしもし、聡くん?」
「は? あぁ はい」
 どうやら美鶴は、携帯奪取に失敗したようだ。
「ごめんごめん。後ろがうるさくって」
「それは私の携帯だってばぁっ!」
「あぁんっ 聡くん、美鶴は気にしないでねん」
「はぁ」
 美鶴、ここはお前に同情するぞ。







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